フリップフラッパーズ「ピュアイリュージョン」の考察

フリップフラッパーズを見て、「ピュアイリュージョン」とは何なのか、一つの解釈を自分なりに整理してみた。
とはいえ、まあ、正直本編のあれこれを軽視しすぎた考察かもしれず、お気に召さなかったら広い心で笑っていただきたい。

フリップフラッパーズでは「フリップフラップ」に所属するパピカやココナ達が「欠片」またはヤヤカ達が言う「アモルファス」を探すために「ピュアイリュージョン」を冒険する。
ピュアイリュージョンで敵を倒したりして手に入れる目的といえばパピカは「願い事がかなう」と言いヤヤカは「世界征服」と言い、何かを想像させるのだが具体的にどうなるかは判然としない。
トンネルをくぐったピュアイリュージョンが登場人物の内的世界であることは示されていて、いろは先輩のエピソードで示されたようにピュアイリュージョンの「深部」はその人の過去に関連し、そこでの出来事は現実世界にまで影響を及ぼしている。

ところが、いくつかの出来事によってココナ達のいる現実世界もまたピュアイリュージョンであることが示唆されている。
もしそうだとすると、このピュアイリュージョンは誰のピュアイリュージョンなのかということが問題になるところだが、これについてはオープニングに「原作 ピュア・イリュージョニスト」と記されていることから明らかで、つまりココナのいる現実世界は原作者のピュアイリュージョンなのだ。
これはココナの現実世界が視聴者の住む現実の現実世界に似てはいるがどこか奇妙でおかしい理由であり、終盤でココナがピュアイリュージョンに行けない本当の現実世界のような(ただし本当にそうではない)世界に投げ込まれることもそれを示唆しており、更にはこの世界でいくつかうまく説明がつかない事態が起きる理由でもあるのだ。

これらから、実は「ピュアイリュージョン」とはアニメ制作者達の内面世界であり、そこにある「欠片」は制作者が持つアニメ作品の元になる何かであるとする考え方が成立する。これは比喩と考えることもできるが、作中での表現からするとピュアイリュージョンの持ち主のピュアイリュージョン内への投影という見方になる。ココナの現実世界のユクスキュルとユクスキュルのピュアイリュージョンにおける緑の紳士の関係と同じものだ。
この投影により、作中の登場人物はアニメ制作者であり、ピュアイリュージョンは制作者の精神、欠片は作品のアイデアやその人の才能である。登場人物が属しているフリップフラップアスクレピオスは制作者達の組織だから、まあアニメスタジオといったところだ。それゆえに彼らは欠片を集めて「ピュアイリュージョンの解放」やら「世界征服」やらをしようとしていく。
フリップフラッパーズの特色としてピュアイリュージョンの世界が様々なアニメのオマージュになっている点があるが、そう考えるとピュアイリュージョンが多様なカテゴリと表現手法を持った個々別々のアニメ世界を構成しているのも納得できる。それはアニメ世界のそしてアニメ制作者が持つ精神の多様性なのだ。

その構造の上にアニメ制作とはどのような事なのかというテーマが展開される。
作中では誰もがピュアイリュージョンに行けるわけではない。パピカとココナは「一緒の気持ちになって」行くことができたが、必ずしも思い通りの場所には到達できない。
ヤヤカ達は高度な技術の助けを借りてはいるが、それでも誰でも行けるわけではないし外れもある。そしてヤヤカ達に言わせれば大変な「覚悟」が必要なのである。
1話冒頭のパートナー候補の件や持参する宝物が無生物推奨であることなどから、ピュアイリュージョンに入れたとしても行って帰ってくること自体が大変に危険なことなのだ。

ココナやパピカは序盤で否応なしに覚悟せざるを得ない状況に追い込まれて「変身」するのだが、これはアニメ制作の過程でもある種の「変身」が必要ということだ。そしてパピカたちの変身は新たな段階に進むとともにより高度に進歩してゆく。ヤヤカは最初は変身なんてできないと思っているが、しがらみを振り切ってついにはココナを助けるために変身する。一方ユユやトトは覚悟を持ってあらゆる手段を使って欠片を集めてはいるのだが変身なんてできるとも思っていないようだ。

次にこの解釈で重要なテーマとして出てくるのが制作者と周囲の人間関係である。
ピュアイリュージョンに入るにはインピーダンスを0にして一緒の気持ちになる必要があったり、欠片を手に入れ生還するにはチームワークで困難を乗り越える必要がある。その一方で、他の組織との競争に加えて内部の諍いや組織との衝突もあり、ソルトが言うように「摩擦が世界の真理」なのだ。
それでもココナはパピカやヤヤカ、他の面々と協力して事態を切り開いていく。
このように作品を通して描かれる人間関係はまたアニメ制作者を取り巻く人間関係のイメージでもあるのだろう。

ミミとココナの関係は重層的で複雑だ。ミミはピュアイリュージョンに関して強力な力を持っているのだが矛盾した内面を持っているしその力の結末として多くの欠片をもたらした。その巨大な存在の別の側面として、偉大さゆえの影響力というものの功罪を考えさせる。
12話でミミの欠片は力を失うのだが、パピカとココナは自分達でミミの繰り出す怪物をものともしない新たな力を生み出すのだ。

重要なテーマのもう一つは、アニメ制作が制作者や関係者また視聴者まで含めた外部に与える影響である。
ピュアイリュージョンに入った者は入った時点でその性質に影響されてしまう。
更に、ピュアイリュージョンの「深部」は精神世界の基盤となる過去の記憶からなる存在なのだが、それは時に恐ろしいもので、変えてしまうこともできるが、その結果は現実にまで返ってくるのだ。
いろは先輩のそれは美術に対するモチベーションになっていたのだが、深部の変化はそこに対しても影響を与えてしまった。

ココナはそんな場所に踏み込むことに対する不安を抱きながらも立ち向かっていく。
しかし終盤でココナを取り巻く環境が一変しそれまでの世界が崩れ去り、会いたかった家族との再会もまたココナに厳しい状況を突きつける。
そこでは二人のミミがココナに両面からの提案をする。他者の手の内で安全な居場所にとどまるのか、それとも自分で進みたい世界を自分で選ぶのかと。そして、ココナは後悔を恐れずに、自分の身の危険も、そして世界を変えてしまうことをも恐れずに次の冒険に進むことを自分自身で選ぶのだ。
この解釈の上でそれが示唆することは十分理解できるし深く共感できる。

ここまでがこの解釈の上で特に重要と思ったポイントだが、他にも作中のいくつもの設定や要素がこのテーマを構成していて、多くのシーンやセリフについてこの文脈から読むことができる。
そもそも「フリップフラッパーズ」とはどういう意味なのか。この読み方において「flip flap」はアニメ制作工程で紙などをめくる様子、またアニメのカットの切り替わりなどの様子を表し、ひいてはそれを中心とした制作作業を象徴している。そう考えることで「FLIP FLAPPERS」というタイトルも自然に理解できる。

オープニングテーマソングのタイトル「Serendipity」はアニメ制作上のスタッフ・作品・アイデアや才能とのめぐり合わせと解釈できる。
エンディングテーマソング「FLIP FLAP FLIP FLAP」で大事なことなので2回言ったのみならず、さらに何度も反復されていくフレーズは、動き続ける制作作業の継続性を表現しているかのようである。
エンディングアニメーションはパピカとココナの冒険の始まりから終結までの過程だ。登場人物をアニメ制作者と見たとき、この冒険はアニメ作品の制作であり、またより長い期間と見れば制作者の職業人生とも解釈できる。
となればエンディングの最終カット、真っ白な世界に付けた足跡、これこそがその成果として最後に残すものなのだ。

フリップフラッパーズの構成要素は直接的な表現内容の他に、それらが参照する事物からくる含蓄や様々な解釈も含め、多層的多重的な解釈を可能としている。とはいえこの解釈は多少メタに振り過ぎて作品から遊離している感はあるのだが、作品の内側と並行して外側に存在するもう一つの解釈として考えればいくつかの要素をうまく説明できるように思える。
私の場合はこの解釈の元で、フリップフラッパーズという作品によって原作者のピュアイリュージョンを覗かせてもらったのかなと考えるのは面白かったし、本作に限らずアニメを鑑賞する意義をも深めてくれたような気がしている。

そんなわけで週替わり特別上映の入り口で、ああここがピュアイリュージョンへの穴かな、と妙な妄想を抱きながらもう一度フリップフラッパーズの世界に入っていったのだが、この解釈の先には更なる謎が出てくるし作中から読み取れる部分もまだあると思う。
一方で楽しく一方でちょっと複雑な気持ちを抱きながらもまだまだ見足りないと感じる現時点である。